シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

THEライフ・シニア徒然ブログ




10代、20代の子や孫が両親や祖父母の介護をする―。
「ヤングケアラー」の存在が社会問題になっている。


母子家庭で育った大学4年生の男性は、フルタイムで
働く母親の代わりに中学時代から身体機能や認知機能
の低下した80代の祖母の食事や下の世話などの介助を
余儀なくされた。


母親と祖母との激しい口論は日常茶飯事で、そんな中、
必死に大学受験に挑んだ …





関西在住の湖西信治郎さん(仮名・現在20代独身)は、
大学4年生だ。


両親は湖西さんが物心つくかつかないかの頃に離婚し、
母子家庭で育った。


父親とは中学入学以来会っておらず、それ以前もほと
んど父親と接した記憶がないため、湖西さんは父親が
どんな人物だったのか覚えていない。


自分で聞こうとせず、母親も話さなかったため、離婚
の理由も知らない。


保育士の母親は30代で出産し、育休に入ったが、家計
を支えるために復帰後からフルタイムで働いていた。


そのため、湖西さんが保育園に通っていた頃は、電車
で1時間ほどのところにある公営アパートで一人暮らし
をしている母方の祖母が迎えに来た。


祖母がくれたヤクルトを飲みながら祖母の家に帰り、
母親の仕事が終わるまで祖母と過ごした。


湖西さんが小学校の低学年の頃は、学校が終わると母
親の働く保育園へ自分で行き、宿題などをしながら、
母親の仕事が終わるのを待っていた。


2008年、湖西さんは小学校高学年、母親は40代、祖母
は79歳だった。


もともと骨粗鬆症と診断を受けていた祖母が背中の痛
みを訴えるので、母親が半休をとって病院に連れて行
くと、「脊椎圧迫骨折(脊椎椎体骨折)」を起こして
いることが判明。背骨の前方にある椎体が壊れて変形
していた。


「脊椎圧迫骨折(脊椎椎体骨折)」は、若・壮年者が
交通事故や転落事故で受傷することもあるが、多くは
骨粗鬆症による骨脆弱性を背景として、高齢者に多く
みられる外傷だ。


明らかな外傷のきっかけがあって痛みを伴う圧迫骨折
と、はっきりとした外傷のきっかけがなく、気がつか
ないうちに生じている圧迫骨折とがあり、祖母の場合
は後者だった。


多発的に圧迫骨折が起こると、背中が丸くなり、身長
が低くなるという特徴を持つ。


そのため、立ち上がったときのバランスが取りづらく
なるほか、歩行困難になったり、丸まった姿勢のせい
で、逆流性食道炎を起こしたり、呼吸機能に問題を生
じることもあるという。


祖母は入院し、骨折自体は3~4カ月ほどで良くなった
が、退院する頃にはすっかり背中が丸くなってしまっ
ていた。





退院してからというもの、祖母は自分の背中が丸くな
ってしまったことにショックを受け、意気消沈。入院
前までは明るく活発で、自分の姉妹や従姉妹と旅行や
ランチに出かけていた祖母だが、一日中家の中に閉じ
こもるようになってしまう。


プランターで花を育てるのが好きだったが、それさえ
せず、全く笑顔を見せなくなった。


心配した母親が、祖母を病院へ連れて行くと、うつ病
と診断され、服薬を開始。


また、祖母は年に何度か湖西さんの家に泊まりに来て
いたが、2009年になると、電車の乗り換えの仕方を忘
れたと言い、母親に訊ねるように。


母親は、「このままでは迷子になったり、行方不明に
なったりするのではないか?」という不安を感じ、湖
西さんに「お祖母ちゃんと同居しようと思うんだけど
……」と相談。湖西さんは「一緒に住めるの?」と喜
んだ。


2010年。祖母との同居が始まった。介護認定調査を受
けた結果、祖母は要支援2。 同居と同時に祖母は、週
に3回デイサービスの利用をスタートしたが、最初はな
かなかデイサービスに行きたがらなかった。


だが、顔見知りが増えるにしたがって、通うのが楽し
くなってきたようだ。


デイサービスがない日は、祖母は家で一人で過ごした。
朝、母親が昼ごはんを用意し、「昼はこれをチンして
食べてね」と口頭で伝えたり、紙に書いたりすると、
まだこの頃の祖母は、その通りにして食べることがで
きた。


しかし、だんだん祖母の様子がおかしくなっていく。


夜なのに「朝だ!」と言い張ったり、夕食を食べたのに
「食べてない!」と言ってまた食べたりするようなこと
が増えてきた。


「母は仕事、私は学校なので、母が祖母に、『ご飯を
炊いておいてね』とか、『野菜を切っておいてね』な
ど、簡単な夕食の準備を頼んで出かけるのですが、帰
宅すると何もできていないことが続き、母と祖母がケ
ンカをすることが増えました」


朝、祖母は言われたことを忘れないように、母親が口
頭で伝えたことを紙に書きとめるのだが、書いた紙の
置き場所を忘れてしまい、結局何もやってないという
ことが当たり前のようになっていった。


認知症を疑った母親は、祖母に認知症の検査を受けさ
せたが、「ただの物忘れ」と言われる。


ようやく認知症と診断がおりたのは、約6年後の2016年、
祖母が87歳になってからのことだった。





湖西さんは、祖母と暮らしていることは中学や高校の
友だちや担任の先生に話していたが、自分も介護をす
ることがあるということは誰にも話していなかった。


10代で介護をしているのは自分くらいだと思っていた
湖西さんは、話したところで、誰もわかってくれない
と思っていたからだ。


「私にとっては、自分の時間に制約を受けることが何
よりつらかったです。


私と母は祖母に合わせた生活をせざるをえない状況だ
ったので、介護していない人の自由さに、いつも羨ま
しさを感じていました」


湖西さんは中学生の頃から、祖母の朝と夕方のデイサ
ービスの送迎や、帰宅の遅い母親に代わって夕食の支
度、祖母の食事の介助を担い、高校生となった2017年
頃からは、オムツの交換も行ってきた。


「頼んだことができていないと、母はいちいち祖母に
怒りました。


高校受験の頃はまだそこまでではなかったのですが、
大学受験の頃は祖母の症状が進み、2人が口論する声
で受験勉強に集中できないことが少なくありませんで
した。


母も私も、かなりストレスが溜まっていたと思います」


祖母と母親は普段は仲が良いが、どちらも気が強く頑
固なところがあり、ささいなことで口喧嘩になる。そ
んなときは決まって、湖西さんが仲裁に入った。


「やはり母一人で介護をさせることは心苦しいので、
手伝わないわけにはいきません。かといって、この生
活がいつまで続くのか、終わりが見えない状況は、本
当に苦しかったです。『就職してからもこのような生
活が続くのだろうか?』などと考えることが多くなり、
私自身、精神的にかなり追い詰められていたように感
じます」


ひたすら耐えるしかない。そんな日常に、湖西さんの
心身も削られた。


インターネット上で見つけた「うつ病チェック」を何
気なくやり始め、途中でやめたこともある。


介護に関する悩みや不安は、母親はケアマネージャー
やデイサービスの職員などに相談していたようだが、
湖西さん自身は誰にも相談していない。


また、湖西さんと母親は、介護に関する相談や愚痴を
お互いに言うことは、ほぼなかった。


湖西さんと母親は、介護疲れやストレスからイライラ
することが増え、口論になることが頻繁に。するとさ
らにストレスが増える……という、


悪循環に陥り、家の中はギスギスした空気が充満して
いた。


(以下、後編続く) …











慶応元年創業の老舗造り酒屋・月の井酒造店。...


その6代目である夫ががんに倒れ、奥様の坂本敬子現
社長には、伝統ある蔵と有機の酒「和の月」が残され
ました。


夫の闘病と同時に並行して進められた有機の酒「和の
月」はどのようにしてできたのでしょうか?


夫は慶応元年から続く造り酒屋・月の井酒造店の6代
目です。まだ若い蔵元として仕事仕事の毎日でしたが、
風邪ひとつひかず元気に飛び回っていました。


もっとも平成13年は仕事が忙しくて都合がつかず、
人間ドックに行ったのは1年半の間隔があいて、翌年
3月でした。


今度の結果はいつもとは違っていました。バリウム検
査で食道の変形が認められ、総合病院で診察を受ける
ように言われたというのです。


夫に病院の玄関で待っていてもらい、トイレに行った
時、偶然廊下で外科医に出会いました。


疑問を伝えると、外科医は夫が近くにいないのを確か
めて口を開きました。


食道だけでなく、首のリンパ節に転移があります。と
いうことは、リンパの流れに沿って身体全体にがんが
散らばっているということです。いま手術をするのは
得策ではありません」


入院した日、私は医師に聞きました。


「抗がん剤が効かなかったら、どうなるのでしょう」
「為す術はありません。


ご主人のような場合、早ければ半年、平均10か月で
す。


為す術がないなんて。膝がガクガク震えるのを堪え、私
は心の中で叫んでいました。誰がどう言おうと、私だけ
はがんと闘う。そう思い定めたのはあの時でした。


いまからでも遅くはない。私は玄米食や免疫力を高める
というにんじんジュースなどを努めて出すようにしまし
た。…


ある日、私はふと思いつきました。


「うちでも有機の酒を造れないかしら」「有機の酒か。
いいね。おまえ、やってみろよ」


「えっ、私が?」「そうだよ。おまえが思いついたんだ
から、自分でやるんだ」


一方、夫の肝臓に転移していたがんは、確実に進行して
いました。抗がん剤が効かなくなったのです。


決算が終わった9月のある日、夫は昼食に帰宅すると、
突然言いました。


「敬子、おまえを専務にしたぞ」思ってもみないことで
した。


11月がきて、酒造りの季節になりました。


岩手から杜氏と蔵人がやってきて、夫が期待して育てた
社員も蔵人として加わって、有機の酒の仕込みも始まり
ました。


・  ・  ・ 


慶応病院に最後の入院をした夫に有機の酒を届けること
ができたのは、クリスマス・イブでした。


利き酒をふくむ夫の口元を、私は息を詰めて見つめまし
た。夫は言いました。


「うん、きれいな酒だ」私も口にふくみました。雑味が
なく、澄んでいて、すうっと喉を通っていく味わい。


きれいな酒。こんなピッタリしたすてきな批評を夫から
もらえて、私は嬉しさに泣いてしまいました。


私は夫に最後のお願いをしました。


新しい有機の酒は、名前を夫の和彦と月の井から一字ず
つ採り、「和」は「な」と読ませて「和の月」と決め、
ラベルの文字を夫に書いてもらうように頼んだのです。


衰えた身体で夫がその文字を書き上げたのは、死の80
時間前でした。夫の心の力がこもったすてきな文字でし
た。


・  ・  ・


子どもたちが次々と夫に添い寝をして、最後に私も添い
寝をしました。


わが家では居間に大きなソファがあって、夫がそこに横
になると子どもたちが潜り込む。それが別れのセレモニ
ーになりました。


平成16年2月8日午後11時5分、夫は旅立っていき
ました。享年47歳でした。


葬儀などのごたごたが済んで、私は夫の私用の金庫を開
きました。


封書が1つあり、表に「敬子へ」と書かれていました。
遺書でした。中身はいかにも夫らしく、簡潔でした。


「色々お世話になり、本当に感謝の念で一杯です。子供達
がまだ小さいので、立派に成人するまで会社のほうは敬子
が代表者として頑張る様、よろしく頼みます」


短い言葉に溢れるような夫の気持ちを感じました。同時に
力が湧いてきました。私に迷いはありませんでした。


こうして私は、月の井酒造店の社長になりました。


まったく未熟な私ですが、多くのお取引先や関係者に導か
れ、社員に助けられ、なんとかやっております。


皆がいてくれればやれると思います。私には夫が心を込め
て守り育てた蔵と、最後の力を振り絞って残してくれた


有機の酒「和の月」があるのですから。・・・










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