THEライフ・シニア徒然ブログ
中学時代から祖母を母親とともに介護してきた20代男性。
大学生になった時、海外の大学に留学する計画を立てたが、
コロナの流行で頓挫。自宅でオンライン授業を受けながら、
要介護4で90歳超の祖母の世話をする。
だが、どんなに尽くしても、祖母から感謝の言葉はない。
2016年ごろに祖母(当時87歳)は認知症と診断され、要介護1
と認定された。週3回のデイサービスに加え、ショートステイ
を月2回ほど利用するようになっていた。
自ずと その頃の祖母は、椅子に座ったままうとうとと居眠り
をするようになっていたため、孫の湖西信治郎さん(仮名・
当時高校生、現在大学4年)も、湖西さんの母親(50代)も、
「椅子から落ちると危ないからベッドで寝て」と何度も注意
していた。
しかしその度に祖母は、「あんたなんかに指図されたくない
わ!」と拒絶。
「さすがにカッとなって口喧嘩になることは時々ありました
が、私が手を上げたことは一度もありません。
ただ、それまで祖母を介護してきて、祖母から感謝の言葉を
かけられたことも、一度もありませんでした」
2018年11月。心配していたことが現実となった。89歳となっ
た祖母がいつものようにうとうとしていたところ、バランス
を崩して椅子から落ち、床に転がったまま痛みを訴え、起き
上がれなくなったのだ。
母親と湖西さんは救急車を呼び、病院へ。 祖母は大腿骨を
骨折しており、入院することに。
2019年3月。祖母はリハビリ病院を経て、退院した。
骨折前は杖をつけば自立歩行ができていたが、退院した祖母
は、誰かの介助なしでは歩行できなくなっていた。医師から、
「杖を使っての歩行は、転倒のリスクが高いため危険です。
歩行器を使ってください」と指導を受ける。
これ以降、トイレ介助や入浴介助は、母親と交代、または
共同で行うことになった。
祖母は、4年ほど前から紙オムツをしている。にもかかわらず、
深夜や早朝でもお構いなしに、頻繁にトイレに行きたがった。
「祖母が朝5時すぎに起きて『トイレに行く』というのですが、
母曰く2時間前ぐらいにも行っているらしく、トイレに連れて
行くけど、結局出ないで終わるのです。
だから母は、『まだ大丈夫だから寝てて』と言うのですが、
祖母は聞かずに『トイレに行く!』と言い張る。
夜中のトイレ介助で睡眠不足からイライラしている母は、毎回
朝から祖母と口喧嘩をくり広げ、私はその声に起こされていま
した」
歩行器を使わないと歩けない祖母は、それでも「自分はまだし
っかりしている」と思い込んでおり、勝手に動き回ろうとする
ため、湖西さんも母親も手を焼いた。
「次、また骨折や大怪我などしようものなら確実に寝たきりに
なってしまいます。それを避けるため、私と母は、祖母がデイ
サービスから帰ってきたら椅子に座らせ、勝手に立ち上がって
動き回ろうとしないように麻縄で縛りつけていました。
おそらく、『非人道的だ』と思う方が大半だと思いますが、わ
が家ではそうせざるを得ないところまでいきました。そうでも
しないと、こっちがもたなかったのです……」
2020年、91歳になった祖母は、要介護4と認定。祖母は時々、
母親と湖西さんの名前を間違えるようになっていた。
祖母を介護しながら地元関西の大学に合格した湖西さんは、
将来、海外の大学院に進み、国際関係論の修士号を取得し、
それを活かせる職業に就きたいという目標がある。
そのため、湖西さんは大学2年の頃から留学を計画していた。
母親に相談すると、「行ってもいいけど、私も一緒に行く」
という。
「私は最初、アメリカのコミニュティカレッジ(日本でいう
短大相当)に入って、そこで一年勉強して、アメリカの公立
大に編入するつもりでした。
コミニュティカレッジは奨学金が使えないので、その分は母
に負担してもらい、編入後は自分で奨学金を借りて通う予定
でしたが、母は私を諦めさせるために『一緒に行く』などと
言ったのだと思いました」
母親は、自分を残し、介護から逃れようとしている息子が許
せなかったのかもしれない。それでも湖西さんは何とか母親
を説得し、2020年に留学するため、大学を休学。
ところが、2019年末からの新型コロナウイルス感染症の世界
的流行のため、留学は断念せざるを得ない状況に陥る。湖西
さんは泣く泣く10月に復学した。
留学していれば、おのずと祖母の介護からは解放されていた
わけだが、留学も祖母の介護からの解放もかなわなかった。
湖西さんの貴重な時間が生贄になったも同然だ。
緊急事態宣言の発令以降、大学はオンライン中心に。祖母の
デイサービス先もショートステイ先も閉鎖になり、ほぼ一日
中、祖母がいる自宅で過ごす。
母親は保育士としてフルタイムで働きに出ている。祖母の介
護によるストレスが1人で抱えきれなくなっていた湖西さんは、
SNSに愚痴を吐き出し、ストレスを発散させるようになった。
SNSに愚痴の破棄場所を見いだした湖西さんは、気持ちが楽に
なるのを感じた。
一方で、SNS上で他の人の介護の状況を知ると、「うちの祖母
はまだマシかな」と思うと同時に、「うちの祖母もああなって
しまうのかな」というとてつもない恐怖感に襲われた。
「祖母の介護が始まった当初は、愛情や優しさを持って介護
しようと努めていました。
しかし、愛情や優しさを持って介護すればするほど、祖母から
暴言を吐かれたときにダメージが大きくなることに気がついて
からは、できるだけ無の感情で介護をすることを心がけるよう
になりました。
睡眠時間も自分の時間も削られて、介護家族は疲弊しています。
認知症の祖母は、相手が身内だろうが他人だろうが暴言を吐き、
どんなに尽くしても、『介護してくれてありがとう』の一言も
ありません。
正直、『もう早く死んでくれ』と思っていました……」 湖西
さんの疲労とストレスはピークに達していた。
湖西さんと母親は、祖母の介護が本格的になる以前は良好な
関係だったというが、最近はそうではなくなっていた。
ある日、湖西さんがアルバイトから帰宅すると、帰りが少し
遅くなったことを母親に咎められる。
「母は、ちょっと過保護なところがあって、私の行動をすべ
て把握しておきたいみたいなんです。
バイトや友だちと出かけるとき、何時に誰とどこへ行って何
時に帰ってくるか、全部知っていないと気が済まないようで、
何も言わずに出かけるとスマホに着信が何十回と入ります。
その時の気分で機嫌が悪くなるので、高校生の時は母の顔色
ばかり伺っていました。
私が寝ている間に私の部屋に入って、私が自分で買った本や
モノを『あんたなんかには必要ない』と言って平気で捨てら
れたこともありました」
おそらく母親自身、相当ストレスが溜まっていたのだろう。
このときも、帰りが少し遅くなったため、執拗に責められた。
「まるで自分だけが犠牲を払ってるみたいに言われると、正
直、『ふざけないでくれ』と思います。
母1人で介護をしているわけではありません。親だからって言
っていいことと悪いことがあると思いました」
湖西さんは、息子として孫として、10代の頃から十分すぎる
ほど母親と祖母をサポートしてきた。ましてや、湖西さんは
母親に対して、一度も介護の不満や愚痴をこぼしたことがな
いという。
「母は、高齢でしかも認知症の祖母相手にいちいちカッとな
るので、大人げないなあと思ってしまいます。
介護の仕方ひとつとっても、母と私は衝突することが増えま
した。母は時間がないから何でもかんでもやってあげてしま
うのですが、私は少しでも祖母が自分でできることは自分で
させてあげようと考えて、見守ろうとするのです」
「母娘」と「祖母と孫」、立場や関係性の違いもあるのかも
しれない。だが、毎日のように母親と祖母が怒鳴り合うため、
湖西さんは大学のオンライン授業や課題に集中できず、ほと
ほとまいっていた。
「介護そのものよりも、祖母と母の怒鳴り声を毎日聞かされ
ているだけで病みそうでした。
祖母とケンカすることでたまったストレスが私の方に向いて、
今度は母と私とのケンカになるのです。
母は祖母や私とケンカして怒鳴ることで、ストレスを発散し
ているような気がしました」
1度だけ、ヒートアップした母親が祖母に手を上げ、けがをさ
せてしまったことがある。湖西さんが仲裁に入ったから良か
ったが、誰もいなかったらと思うと恐ろしい。
とはいえ、91歳の祖母は、50代の娘に負けていない。
湖西さんがアルバイトから帰宅すると、部屋の奥から「ギャ
ー!」という母親の叫び声がする。
びっくりして駆け寄ると、祖母と母親がいつものようにケン
カをした末に、逆上した祖母が母親の腕に思い切りかみ付い
たらしい。
母親の腕には、くっきりと歯型がつき、血がにじんでいた。
湖西さんは2人をなだめつつ、母親の腕の手当をし、祖母の
オムツ交換を済ませ、寝かしつける。
その後も湖西さんは、母親と祖母の怒鳴り声が聞こえてく
ると、大学の課題の手を止め、SNSに向かった。
どこにも吐き出せないストレスや愚痴をSNSに吐き出すと、
心が軽くなり、救われる思いがした。
2021年5月。祖母が要介護4になってから、複数申し込みを
しているうちの1つの特養から電話が入る。
「6月か7月には空きが出るため、入所できるかもしれませ
ん」とのこと。湖西さんは暗闇に一筋の光を見た気がした。
しかし、ぬか喜びに終わるのが怖くて、本決まりになるま
では気を抜かないよう努める。 すると1週間ほど後に、本
決定の連絡が来た。
それを聞いた湖西さんは、「SNSで同じように介護を頑張
っている人たちに、自分だけ楽になる気がして申し訳ない」
気持ちになった。
特養入所までは1週間ほど。その間に、契約書への記入のほ
か、看取りや急変時の延命措置、終末期の措置などについて
の同意書や宣言書に記入しなければならない。
「延命措置や終末期の介護に関して、私が、『人間らしく、
なるべく苦しまないでほしい』と母に伝えたところ、母も
それに同意してくれましたが、いざそれを書類という目に
見える形で意思表示をするとなると、ペンが重くなりまし
た。
母も同じ考えだったのは正直意外でしたが、家族として意
見がまとまったのは良かったと思います」
このあと、湖西さんは少し「自分の人生の終わり方」「ど
ういうふうに死にたいか」ということについて考えた。
もちろん、答えは簡単には出ないが、「20代でこういう機
会に恵まれる人は少ないだろうな」と思った。
特養に入ることを祖母に伝えたところ、祖母は「分かった
けど分からん」と答え、特養に入所する前日の夕ごはんは、
祖母の好物の鰻丼にしたところ、ぺろっと平らげた。
そして5月末。母親と2人で祖母をタクシーに乗せ、特養に
送った。
10年と少し利用したデイサービスの職員たちにはこれまで
の感謝を伝え、これから入所する特養の相談員や栄養士、
看護師や理学療法士に挨拶して、約10年にわたる在宅介護
を終えた。
湖西さんと母親は、この日初めて「お疲れ様でした」と、
お互いを労い合った。
6月。オンライン面会で会った祖母は、変わらず元気そうだ
った。
「私は在宅介護には、やりがいや喜びはないと思います。
ずっと、『この生活がいつまで続くのだろうか』と、半ば
絶望を感じながらやってきました。
2020年5月に、母親を介護していた20代の娘さんが、母親の
首をしめて殺害した事件がありましたが、母親を殺めてし
まった娘さんには本当に同情しました。
もちろん殺人はダメですが、きっとつらかったんだと思い
ます。私は絶対に殺しませんが、何度『早く死んでくれ』と
思ったかしれません。介護って怖いですね……」
湖西さん自身、幼い頃は祖母のことが大好きだった。しかし、
介護をするようになって、「幼い頃の楽しかった記憶が徐々
に薄れてくる。ただただつらい記憶で上塗りされていく……」
と苦悩していた。
「よく、『育ててくれたんだから、お世話になったんだから、
介護をするのは当たり前』と言う人がいますが、介護経験が
あって言っているのでしょうか?
『思いやりのある介護』『介護される人の身になって介護す
る』といったイメージは、あまりに現実の介護と乖離してい
ます。
介護するとなったら腹を決めて、そんな理想は捨て去り、
“介護する側”が介護しやすいように環境を整える。
調べたり人に聞いたりして、少しでも情報を集める。最も
重要なのは、必要以上に自分を責めないこと。これに尽き
ると思います」
湖西さんは現在、大学院進学と就活、両方で準備中だ。介護
にとられていた時間を取り戻した湖西さんは、「TOEICや資
格試験の勉強に充てたい」と話す。
「日本って、一度レールから外れたら、その後戻るのが簡単
ではないと思うし、そのフォローが何もない気がします。
だから、現在介護をしている人は、介護のために離職したり、
学校や勉強をやめたりしないでほしい。何とかしてやめずに
すむ方法を模索してほしいと思います。
祖母の介護をしていてつくづく、介護されている方、介護に
仕事として携わっている方が、今より報われるような社会に
なるといいなと心から願うようになりました。
このままでは日本は、介護で崩壊するのではないかと危惧し
ています」 現在母親は50代後半。あと20年もしたら、今度
は母親の介護が始まるかもしれない。
「私自身は、もし結婚して子どもができても、将来自分の
子どもには介護はさせたくありません。
本音は、母の介護もしたくありません。だから、母には今の
うちからしっかり、足腰を鍛えさせるなど、健康面に気を配
っておかなければと考えています」
2020年12月から21年1月にかけて、厚生労働省と文部科学省が
初めて行った実態調査によると、公立の中学校1000校と全日制
の高校350校を抽出し、合わせておよそ1万3000人の2年生から
インターネットで回答を得た結果、
中学生の17人に1人(約5.7%)、高校生の24人に1人(約4.1%)
が「世話をしている家族がいる」と回答している。
さらに、「自分の時間が取れない」が20.1%、
「宿題や勉強の時間が取れない」が16%、
「睡眠が十分に取れない」と「友人と遊べない」がいずれも
8.5%。
「進路の変更を考えざるをえないか、進路を変更した」という
生徒が4.1%、
「学校に行きたくても行けない」と答えた生徒が1.6%いた。
湖西さんも中学時代から祖母の介護をしていたが、前出の調査
では、こうした中高生の“ヤングケアラー”で、「誰かに相談
した経験がない」という生徒がともに6割を超えた。
「子どもたちの未来を奪っている」と言っても過言ではない状
況に、一刻も早く国は対策を打たなければならないだろう。 …
あの日のひるめし時、無言で耐えてくれた母の姿から、
私は大きな教訓を学んだ。
業界で、「あいつは口の堅い男」と私を評価してくれる
向きもある。だとすれば、母の教えが現在も生きている
のである。
戦前の食生活、それは貧しいの一語に尽きる粗食だった。
カツ、コロッケ、バナナなど、いま常食になっているも
のさえめったに食卓にはのらなかった。
麦飯に漬物、これが農村の年間メニュー、現在では理解
しがたい一面であろう。貧乏だったわが家もそれ。
私は、その日のことがあるまでコロッケに大きな願望を
抱いていた。「一度でいいから食ってみたい」と。
ある日、私は街に用事のある母に連れられて一緒した。
帰り道のこと肉屋の前にさしかかると、いい匂いが漂っ
てきた。見ると、コロッケを揚げている。
「かあちゃん、コロッケ買って!」私はほとんど衝動的
にせがんだ。
母は私をチラッと見ながら、「そんなムダ遣いしたら父
ちゃんに叱られるじゃないか。さ、帰ろ」と私の手を引
いて行きかけた。
「いやだぁ、一回でいいからコロッケが食いたいよ、か
あちゃん」この声に母の足が止まった。
私の顔をのぞき、その視線を店先へ移した。
「清次、そんなに食いたいのかい?」
「うん。学校で食ったことのないのはオレだけなんだもの」
「……」母の思案している気持ちが、つないでいる手の温
もりを通して私に伝わった。
「コロッケなんか買ったら父ちゃんの雷が落ちるんだから。
母ちゃん知らないよ」そういう母だったが、足はもう店頭
へ歩きはじめていた。
その日のひるめし時がきた。
母と五人きょうだいが膳に就き、父も座りかけた。私は、
コロッケが食べられる幸福感と、起こるであろう父の怒り
への恐怖が入り交じって、体を堅くしながら食卓と父を見
比べた。
「なんだ、このお菜は!」膳を見るなり父の怒声が母へと
んだ。
食卓には、コロッケの盛られた皿と、漬物が山盛りの大ド
ンブリが並んでいる。
私は反射的に母を見た。清次がうるさく言うから仕様なく、
の母の言葉が当然出ると覚悟した。
だが、母は無言、うつむいたままだ。「……」
「何て考えなしの買い物をする!メザシでも買ったらよか
ったのに。こんなぜいたくする銭は、うちにはねえ」父は
声を荒げて母をなじった。
うつむいたままの母が言った。「いくら貧乏してたって、
たまには他人様の子が食ってるもんぐらいは食わして……」
小声で語尾は聞き取れなかったが、私のことはおくびにも
出さなかった。
父はなおくどくど言い募ったが、その後の母は視線を膝に
落とし口をつぐんだままだった。
途中から、私は母にむしゃぶりついていきたい衝動が、心
いっぱいにあふれてきた。「かあちゃん、ありがとう」と。
父の怒りもやっと静まり、みな箸を取った。生まれて初め
てのコロッケのうまかったこと。あの味覚はいまも鮮明に
おぼえている。
食事は終わった。
「みんな、うまかったかい?」母は優しいまなざしで私ら
を眺めながら聞き、視線を私にとめて言った。
「清次、うまかったろ!」母の目が、笑っていた。
この小さな出来事は単に忘れられないにとどまらなかった。
私の成長につれ、出来事もまた心の奥で発酵し、熟成し、
現在、私の処世に欠くことのできない美酒となって芳香を
放っている。
子供のころは、かあちゃんが黙ってくれたので叱られずに
済んだ程度にしか考えなかった。
だが、年が経つにしたがって、出来事は深さも重さも増し
てきた。
“告げ口はすべきでなく、相手の側に立って、言う言わな
いを決める。これが信頼の基本だ”というふうに育ってきた。
結婚し、子を持ってみて、“無言”の大切さは身に沁みて
心に根付いている。
「清次、うまかったろ!」の母の一言は、私にとってどんな
名曲を聴くより感動的な響きを秘めている。
まもなく還暦を迎える今でも、コロッケを見るたびに、無言
の母の姿がまぶたにくっきりと浮かび、胸を熱くするのである。
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