シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

戦国に生きる:魏国興亡史・シニア徒然ブログ




 



鬼谷の教え:この作品は史実をモチーフとしたフィクションです。鬼谷きこく
とは江南の陳国に生まれた人物で、弁論の術を学問として体系化し、それを書
物に著したのだという。


智者は自らの悪い部分を用いず、かえって愚者の良いところを用いるものだ。


自分の下手な部分を用いず、かえって愚者のうまいところを用いるものだ。だ
からこそ智者は困ることがないのである。


それが利益になると主張する者は、そのうまみを吸おうとしているのであり、
それが害になるという者は、悪い部分を避けようとしているのだ。


殻を持った生物の強みは、その殻の厚さによっているし、毒虫の動きは、必ず
その毒という強みによっているのである。


獣はその強みを用いることを知っており、人と話す者もまたそれを知って、用
いるべきなのである……「鬼谷子」



(攻防)



濮陽に駐屯している龐涓にとって、留意すべきことは山ほどあった。まず現地の
住民たちが叛乱を起こさないように気を配らねばならない。たとえ叛乱を起こし
たとしてもたかがしれた程度の規模だろうが、鎮圧するにはそれなりの手間がか
かる。そう思った彼は、城内の軍用倉庫を襲って糧食を奪ったが、それ以上の破
壊行為を行わなかった。


もしかしたら、一目散に逃げ出した衛公に仕えるよりも、魏軍に仕えた方がまし
だと考える住民も現れるかもしれない。民は、自分たちを多く食わせてくれる方
になびくものなのである。  


また、邯鄲方面に出兵した太子申の動向にも注意が必要だった。何らかの原因で
行軍が遅れるようなことがあれば、作戦全体に支障が生じる。龐涓が濮陽にいる
間に、彼らには邯鄲に到着していてもらいたかった。


予定からすれば、そろそろ第一陣が邯鄲の城壁に到達する頃合いであり、太子か
らも異常の知らせはなにも入ってこなかった。いまのところは、順調といったと
ころであろう。そして何よりも重要なことは、斉の動向である。  


濮陽は、臨淄から出発した斉軍を早い段階で牽制できる位置にある。つまり、彼
らが趙の邯鄲へ向かおうと、あるいは魏国内に攻め込もうと、どちらでも迎撃が
可能な場所なのであった。龐涓としては、ぜひともここで斉と一戦し、できるこ
となら孫臏を、今度こそ……始末してしまいたいと考えていた。


おそらく斉側は魏軍が濮陽にも兵を繰り出していることを知らず、道中に敵がい
ることを想像していないに違いない。虚を突く形でこれを強襲すれば、斉は邯鄲
を救うことを諦めるだろう。  


しかし濮陽からはすでに斉に向けて使者が送られているはずであり、遠からず自
分たちの存在は知られることになる。そうなれば、相手も準備を整えてくるに違
いない。半分の兵を邯鄲に振り分けてしまったため軍勢は少ないが、それでも勝
つ自信が龐涓にはあった。


兵の質、装備では魏軍が他国を圧倒しており、斉を相手にしてもそれは揺るがな
いのである。


「斉では知恵を働かすだろうが、戦地を選ぶ時点で我々は相手の虚を突くことに
成功している。これほど有利なことはない」龐涓は自信ありげな態度で兵に語っ
たという。余裕を持って戦いに挑んでもらいたいという彼の意識が表れた言葉で
ある。  


しかし、斉軍は意外な方向に出現した。濮陽の南、平陵を攻めているという。そ
の報告を受けたとき、龐涓は確かに困惑した。斉軍の意図が読めなかったのであ
る。


平陵はその名の示すとおり緩やかな丘が続く地で、兵を忍ばせておく場がない。
また、魏の領地において南に宋、北に衛の両国に挟まれた位置にある。


魏国にとっては防衛上の要衝であり、いくら邯鄲に兵を集結させているといって
も、最低限の兵力は配置してある。しかも、伝統的に強兵が集う地であった。


「我々が濮陽にいると知った以上、斉は意を決して戦うか、それとも諦めて退却
するかのどちらかだと思っていたが、迂回して突破するつもりか。南に進路をと
ったということは、襄陵あたりを狙っているのかもしれない」  


龐涓の読みは結果的に正鵠を得ていたが、その結論は自分自身を納得させるには
至らなかった。


「しかし、この濮陽から平陵までは近い。迂回するにしては、斉の策略は浅薄
だと言わざるを得ないだろう。平陵の守備軍と我々とに挟撃されるだけではな
いか」  


龐涓は独り言のように呟いたが、基本的にとるべき対応は定まっている。平陵
を襲おうとしている斉軍を叩かねば、みすみす通過されるだけであろう。罠の
存在を予測しつつ、それでも行動せねばならなかった。


「総員で平陵に向かう」龐涓は部下に号令した。


斉城、高唐の二将はそれぞれの部隊を率いて平陵を攻略しようとしていたが、
それだけにも苦戦している様子であった。包囲するにも不完全で、迎撃しよう
とする城の守備兵たちに、逆に押されていた。


「どうにも、まずい戦いぶりではないか。斉はよほど混乱しているのか。無茶
な作戦をたて、さらに少数の部隊にそれを決行させている。指揮する者が、全
体を把握していないことのあらわれだ」  


龐涓はそう思ったが、それにしても本隊の姿がどこを探しても見当たらない。
あるいはこの状況は、先行する部隊の独断なのか、とも思った。だとすれば、
指揮系統の乱れである。 ——そんなはずはない。  


おそらく、目の前にいる二つの部隊は捨て駒であり、彼らを戦わせている間に
本隊は退却したのだろう。龐涓はそう判断した。ならば、目の前の敵を早々に
片付け、いち早く邯鄲に向かうべきだ。  


もともと龐涓が濮陽を制圧した目的はそこにある。斉や衛などの周辺諸国に軍
事的な干渉を許さないためであった。斉軍の本隊が撤退したとあれば、それは
満足すべき結果である。  


龐涓は指令を下し、斉城、高唐の部隊を殲滅にかかった。結果は斉軍の大敗で
ある。 「本隊を見つけたか」部下に周辺を偵察させた龐涓は、それを否定す
る報告を受けると一部の守備兵を残して邯鄲へと軍を向かわせた。


もう少し兵力に余裕があれば、自分はここにとどまっていたいと考えた彼だ
ったが、早期に包囲を完成したいと思えば、無理からぬ決断であった。


邯鄲を守ろうとする趙軍がどれほどの抵抗を見せているのか、この時点で彼は
知るよしも無かったので、早く赴いて確かめたいと考えるのは自然である。  


やがて龐涓は太子申と合流し、邯鄲の包囲へ参加した。これが、紀元前三五三
年九月のことである。  


田忌は孫臏を呼び、今後の作戦を問うた。既に斉軍は泰山たいざんの麓にある
歴下れきかという都市まで退却している。「平陵を攻略できなかったばかりか、
二大夫を失い、その軍も壊滅させられてしまった。これからどうすればよいと
孫先生はお考えか」  


田忌としては当然不満である。戦略的な撤退とはいえ、この先状勢を逆転でき
る展開が予測できない。そんな田忌の思いをよそに、孫臏は答えた。


「作戦は少々変更します。……もはや襄陵などにはこだわらない方がよい。当
初の予定とは異なる形となりますが、その攻略は中止しましょう。この先龐涓
が邯鄲に到着すれば、先に申したとおり、逆転の機会が訪れます」


「まるで作戦に一貫性がないではないか。龐涓とは直接戦わないのか」「いず
れ、相対することになりましょう。ただし、いまは彼が邯鄲に到着するのを待
つのです。それが確認できたあとでなければ、行動は起こせません」


「…………」孫臏は結局、田忌にも具体的な戦略を明かさなかった。ただ待て
と言うばかりである。 「待ってばかりでは、邯鄲の包囲は完成してしまうぞ」


「邯鄲など、構うことはありません。落城したとしてもあとから奪えばばよい。
と言うより、おそらくその流れになるでしょう。我々が華々しく逆転を飾るた
めに、いっときは魏によい思いをしてもらわなければなりません。


絶頂に浮かれるからこそ、落とし穴に気付くのが遅れる……誰しも、そういう
ものです」あるいは孫臏にはこの時点での妙案などなく、状況に応じて動こう
としているだけかもしれない。田忌は、おそらくそうであろうと思った。しか
し、もはや孫臏に賭けるしか採るべき道はなかったのである。 …














いつもカーテンが閉まっていたから、そこにおられる人がどういう方なのか、
どんな病気なのかは判らなかった。私がその病室に入ってきた時にはすでに
ベッドの周りのカーテンは引かれたままだったし、それから一度も開けられ
たことは無かった。  


若い看護婦さんが白いスカートの裾を翻しながら足早に私のベッドの横を通
り過ぎていき、そして素早く、滑るようにカーテンの隙間からそのベッドに
入っていく。彼女たちは慎重で丁寧だから必ず自分が通った後、少し開いた
カーテンを白い腕をかざして閉めていく。  


外科の病棟だから手術を受けたのだろう。それもかなり厳しい状態であるこ
とは彼の弱く小さなうめき声で判るし、看護婦さんの緊張した顔つきからも
推察できた。  


夜になると病棟の電気が消え、しーんと寝静まった静寂の中にカーテンの向
こうから微かな声が聞こえる。


・・・ああ、辛いんだろうな・・・と思って私も寝返りを打つ。しばらくし
て看護婦さんが小さい懐中電灯で足下を照らしながらカーテンの中に入って
いくと、あのうめき声が小さくなり、やがて聞こえなくなる。


夜半に鋭くなった私の脳裏にベッドの横に中腰になった看護婦さんが患者さ
んの手をさすっている姿が映る。  


それから数10年が経った。私も中年になり、病弱な体も少し回復して仕事に
精を出していた。でも、頑健ではない生来の私の体に、しばしば激烈な苦痛
を味あわされたのだったが、その一つが腎臓結石だった。  


「大の男が七転八倒する」と言われたこの病気は単に血液中で析出した難溶
解性結晶が原因しているだけだが、確かにその痛みは激しい。発作が襲って
くると立っていることは不可能である。  


山口県に講演に行ったときだった。朝、ホテルからでてタクシーを待ってい
たら微かな発作の兆候があったけれど、講演も迫っているのでそのままタク
シーに乗った。でも、程なくして私は後部座席の椅子から転がり落ち、床で
苦しむことになる。  


運転手さんは親切に私を病院に連れて行ってくれたし、看護婦さん、そして
お医者さんが緊急手当をしていただいた。  


それから程なくして今度は東京で発作に襲われた。五反田の病院に駆け込み、
そこでウンウンと唸った。鎮痛剤が効いてくる間、私は数分おきに訪れる激
痛に身を丸くしてベッドに突っ伏すのだが、そのたびに看護婦さんが私の腰
をさすってくれる。  


あれ?と思った。看護婦さんがさすり出すとあれほどの痛みが少し遠くに行
ってくれるのだ。フト見ると若いポチャッとした可愛い看護婦さんだった。


「ああ、女性にさすってもらうと良くなるんだから、私もまだ若いな・・・」
と苦しい痛みの中で思わず苦笑したものだ。  


科学者でもある私はこんなときにも職業病がでる。「あの痛みが遠くなるよ
うな感じは、美人の看護婦さんに反応した心理的なものだろうか、それとも
本当に痛みが弱くなったのだろうか、痛くなるというのは結石が尿道を塞い
で起こるものだから、看護婦さんがさすったからといって変わるはずもない」
と激痛の中でも職業というのは恐ろしいものだ。  


果たして痛みは5分後に訪れ、私はエビのようになってベッドに突っ伏し、
看護婦さんが来られてさすってくれるのを待った。


私は痛みが客観的に見ても減っていくのか、それを実験する好機だ。やん
ぬるかな、看護婦さんがさすってくれると、この世とも思えない苦しみが
少しずつ遠くに移動していくのだ。 そして私の心に「今度の痛みはなんと
か我慢できる」と言う自信が湧いてくる。  


もしかすると痛みとは「今度こそ、我慢ができないかも知れない」という
恐怖心で倍増しているのではないだろうか?そしてその不安をあの看護婦
さんの手が解消してくれるように思えた。  


そんなことが数回続いたあと、鎮痛剤が効いてきた私の体はなんとか起き
あがり、再び病院の玄関を通ることができた。  


脳を手術したのだろうあのカーテンの向うの患者さん、そして私にとって
は死ぬような苦しみだった結石、その苦しみを看護婦さんの手が救ってく
れた。


人間とはそういうものだろう、群生とはそういうものだろうと私は思う。  
共に生きること、共に痛みを分け合うこと、そのことが大切なのだろう。


人間は群生だ。一人では寂しくて生きていけないし、大勢ではややこしい。
やっかいだが、それが私たちの生というものだと思う。  


突然、結石の痛みが来るかも知れないし、やがて体のどこかを指すっても
らいたい時も来るだろう。でも、人が自分を助けてくれる前に自分が人を
救ってあげたい。


give and take(ギブ・アンド・テイク)と言うけれど、ギブ(与える)が
テイク(もらう)より先の方が気持ちがよい。もちろん、テイクを期待し
てギブするわけではないが、それでもギブが先だ。


だから私はデディケーション(献身)という。まずはデディケーション、
ヒトは群生だから、やがてそれは自分に返ってくるだろう。いや、返っ
てこなくてもこの世に生を受けた感謝の気持ちをデディケーションで示
したい。 …  











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