シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

歴史への訪問・シニア徒然ブログ




熊野浦(くまのうら)に来ると大シャチが子クジラを追いまわしていたた
ので、お坊さんは大シャチに自分の弁当をやって代わりに子クジラを逃
がしてもらいました。  


すると子クジラは、何度も頭を下げて、「このご恩は、決して忘れません。
きっと、ご恩返しをいたします」 と、言って、海の中へ沈んでいきました。  


また少し行くとモグラが子どもたちにいじめられていたので、お坊さんは
子どもたちにお菓子をやって代りにモグラを逃がしてもらいました。  


モグラは、何度も何度も頭を下げて、 「このご恩は、決して忘れません。
きっと、ご恩返しをいたします」 と、言って、畑の穴の中に入っていきま
した。  


さて、お坊さんが那智の近くまでくると、どこからかかわいらしい男の子が
やってきて、「那智の滝に行くなら、恐ろしい赤鬼に注意しないといけない
よ。もし赤鬼が出てきたら、このアメをなめさせなさい」 と、アメの入った
きれいなつぼをくれました。  


お坊さんが那智の大滝に着くと、男の子の言っていた赤鬼がドスンドスンと
やって来て、問答(もんどう)の勝負をしようと言うのです。


「もしお前が問答勝負に負けたら、食ってやるからな」  


するとお坊さんは、アメの入ったつぼを差し出して、「その前に、このアメ
をなめてみろ」 と、言いました。


「うん? なんだ、こんな物。腹の足しにも・・・」 鬼がアメを一つ口に
入れてみると、これがなかなかにおいしいのです。  


そこで二つ三つと口に放り込み、うまいうまいと言いながら問答勝負を忘れ
てどこかへ行ってしまいました。  


さて、お坊さんがさっそく滝にあたって修行をしようとしたものの、滝つぼ
の水が多くて滝の下まで行くことが出来ません。  


それを見たモグラは恩返しをするのは今だと思って、日本中のモグラを呼び
集めて、滝つぼの底から海までの長い長いトンネルを掘りました。  


これを見たクジラは恩返しをするのは今だと思って、日本中のクジラを呼び
集めて、トンネルから流れ出てくる水を吸い込んでは海の上にはき出しました。  


すると滝つぼの水はみるみるへって、お坊さんはらくらくと滝の下に行くこ
とが出来たのです。  


この時にモグラの掘ったトンネルは、那智の滝から勝浦の海に続いており、
その穴からは今でも真水が噴き出ているのです。  


また、お坊さんにアメをくれた男の子は那智の観音さまで、そのアメは
『那智黒』と呼ばれ、今では那智の名物になっているのです。


おしまい












彼女は私の連れ子という形で我が家に迎えられたのです。娘が既に成長して
いたこともあり、家庭内には多少の不協和音が響き渡りましたが、時が流れ
るにつれて徐々に和解へと向かいました。


意図的に我が子を持たない決断をしたのは、家計の面もありましたが、何よ
り娘の存在を尊重した結果でした。娘一人で完璧だと、私たちは心に決めて
いました。



しかし、運命は思いもよらない形で転がります。


突如、妻は交通事故でこの世を去りました。それは娘が17歳になった年の出
来事でした。 残された私と娘は、妻がいない現実に直面し、言葉を失いまし
た。私たちは何をどうしていいのか、途方に暮れたものです。


家計は安定しており、娘も家事を一通りこなせるようになっていました。問
題がないはずの生活でしたが、妻の親戚が波乱をもたらしました。 それは
理解できる反応でした。


29歳の血の繋がらない男と、17歳の若い女。教訓めいた言葉や、将来の再婚
を心配する声が私に投げかけられました。


それでも私は、娘のことを血のつながり以上に大切な存在、本当の娘と心から
思っていました。 妻の最愛の遺産であり、私が守り育てるべき一人の子供で
した。 そう決意して、親戚の声は耳を貸さずにいました。


娘はそれを軽妙に笑い飛ばし、私たちの関係は変わらず深い絆で結ばれたまま
でした。



それでも、私たちの周りでは噂が絶えませんでした。学校の三者懇談や進路相
談に行く度に、教師の変わった視線に晒されました。


ある夜、娘が部活で遅くなり、彼女を迎えに行った際に、ある住民が学校に
「娘が援助交際をしている」との虚偽の通報をしたこともありました。


それでも私たちは、父娘として生活を続け、幸せを感じていました。再婚は
考えもしませんでした。娘がいればそれで充分だったのです。



月日は流れ、娘が25歳になったある日のことです。娘から「結婚したい人が
いる」と告げられました。私が妻と結婚した年齢と同じでした。 私の心は複
雑な感情に揺れ動きました。



翌日曜日、私は娘の選ん だ相手に会いました。彼は娘を温かい眼差しで見
つめていました。私はその目を見て、娘を任せられると確信しました。 私
も心の中で小さな諦念とともに、笑いを浮かべました。



時間は待つことを知らず、披露宴の日が訪れました。 「お母さんが亡くな
った時、どうしようかと本当に不安だった。


お父さんはまだ若く、私がいれば再婚も難しいだろうと思っていた。でも、
お父さんはいつもそんなことを感じさせずに、ただそこにいてくれた。そ
れがどれだけ私にとって幸せだったか。私のお父さんはあなただけ。


感謝の気持ちでいっぱいです。お母さんがいなくなってからも、ずっと幸
せな子供でいられたのは、お父さんがそばにいてくれたからです」と、娘
が涙ながらに読む手紙を聞きながら、バージンロードを歩いた時、私はも
う涙を隠すことができませんでした。



娘が家を出て行く前、私が自分で何も出来ないようにと、箪笥の引き出し
に「ぱんつ」「しゃつ」「とれーなー」「くつした」と書いた紙を貼って
いきました。


それは娘の心遣いでしたが、私はその優しさに心から笑いました。 やが
て、娘にそっくりな孫がこの世に誕生するかもしれません。そして、私
は若さを強調しながらも、じいちゃんと呼ばれる日が来ることでしょう。



私は間違っていなかったと確信しています。父親としての道は困難を伴い
ましたが、その全てを選んで良かったと思っています。


妻との結婚、そして娘の父親になったこと。これら全てに感謝しています。
今、一人になって部屋は広く感じられますが、空虚感に苛まれることもあ
ります。


しかし、これから生まれるであろう孫のために、新たな一歩を踏み出す勇
気が湧いてきました。 …













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