THEライフ・シニア徒然ブログ
JR新前橋駅から約2キロ離れた前橋市内の住宅街の公園では、何事も
なかったかのように子供たちが元気に駆け回っている。だが4月1日、
その公園トイレで、42歳の女が誰にも気づかれずに新生児を死産して
いた。新生児の遺体を紙袋に詰め、女は用意したメモを袋に貼った。
「子供を死産した。供養してほしい…」。
2日早朝、前橋市内の老人保健施設は騒然となった。午前5時25分ご
ろ、給食委託業者の男性が施設裏の通用口から入室しようとしたところ、
通用口から少し離れた地面に、黒い紙袋とメモが置かれているのを発見。
内容を確認した男性は、慌てて夜勤中の施設職員に知らせた。 その後、
駆けつけた施設長と群馬県警の警察官が、出産時の血液が付着したまま
の女の新生児の遺体を確認。死体遺棄事件として、捜査を開始した。
防犯カメラに一人で歩く女の姿… 事件発覚から丸2日が経過した4日、
県警は新生児を遺棄した母親を市内のインターネットカフェで発見、逮
捕した。
42歳の住居不定の女は容疑を認め、「処置に困り、供養してほしかっ
た」と供述。女は自称独身で未婚、高崎市出身だが、妊娠前から住居不
定無職という。
今回の出産が初産と説明しているが、逮捕時は「衰弱した様子はなく、
普通だった」(捜査関係者)。新生児の遺体に外傷はないものの、呼吸
した形跡がなかったことから県警は死産児と判断。在胎約9~10カ月
とみられると
いう。
施設の男性職員によると、施設入り口付近に設置された防犯カメラには
1日午後6時半ごろ、紙袋を持ち、一人で歩く女の姿が映っていた。
女は、施設近くの総合病院を通過し、施設方向へ向かってきたという。
「総合病院付近には人が大勢いたため、子供を置けなかったのでは」と
男性職員は推測する。
花を見て、感じてもらえれば…
事件後、施設前には、遺棄された新生児をしのぶ献花が絶えない。男性
職員らは、全ての捜査が終了するとみられる2カ月後まで、献花を続け
るという。
事件とは全く無関係の施設だが、「母親が残した『供養して』とのメモ
を見て、『何もしない』というのは気が治まらない」と施設の職員らで
決めたという。
「今後、女性が現場検証に同行したとき、花を見て、何かを感じてもら
えればいい。女性はまだ42歳。人生をやり直すことはできるはず」と、
男性職員つぶやいた。
女がなぜ一人で公園のトイレで産み落としたのか、なぜ遺棄したのか。
女の経歴、当日の行動も含め、遺棄された名もない子供のためにも、
全容解明が待たれる。 ……
author:(前橋支局 住谷早紀)
「世界屈指のLGBTQタウン」とされる新宿二丁目。同じく新宿のディー
プな繁華街、歌舞伎町と比べても、どこか淫靡(いんび)で謎めいた雰
囲気に覆われている。
元々は新宿三丁目の一角にゲイバーが数軒あったのだが、1968年に新宿
二丁目にニューハーフのショーパブがオープンすると、次第に女性厳禁
の飲み屋が増加。 …
当時の週刊誌が「男たちが集まる隠れ家」として取り上げると、一気に
ゲイが集まり現在のような街となった。 およそ300軒あるといわれる飲
食店はほとんどが個人店。
店主たちはバラエティに富み、その店ならではのルールが存在するとこ
ろも多い。しかし、その魅力を知るとついまた足を伸ばしたくなってし
まう。
そんな街の個性あふれる店主たちが一目も二目も置いている存在が、深
夜食堂「クイン」の名物ママ・りっちゃん(78)。
しかし、2023年9月末、「この街の“住人”ほとんどがお世話になってい
る」という「二丁目の母」がある決断をした。 クインの53年の歴史に幕
を閉じたのだ。
日付が変わった午前0時に開店する深夜食堂「クイン」の魅力とは?
「チンチンチーン」 りっちゃんのビール瓶を栓抜きで叩く乾杯の音頭は、
この店お決まりの儀式。この音を聞くためだけにビールを頼む客も少な
くない。
りっちゃんとビールを酌み交わすと、次第に酒盛りが始まる。ツマミと
なるのは、仕事や人間関係の悩み。りっちゃんからは優しいアドバイス
だけでなく厳しい叱咤激励も飛んでくる。
また、40年来の常連客は「スマホもアプリもなかった時代、新宿二丁目
の中心に位置するクインは街の情報源だった。
飲み代が払えず、お金を貸して欲しいと泣きついてきた客に『出世払い
だ!』とりっちゃんが気前よく立て替えていたこともあったよ」と教え
てくれた。 そんな姿から、りっちゃんはいつしか“二丁目の母”と呼ば
れる存在になった。
もちろん、お腹を空かせた客に振る舞われる温かい家庭料理もクインに
人が集まる理由だ。
りっちゃんの夫、孝道さん(78)が作る料理はどれも美味しい。客たち
は「飾らない味でどこか懐かしさがある」と口を揃える。
そして、これらの料理の値段は「この街に夢を追いかけて訪れた若者た
ちを応援したい」という夫婦の思いから、実に30年以上にわたって据え
置かれた。 安くて美味い孝道さんの料理の味を、お金がなくて苦しかっ
た時期の「青春の味」と記憶している人も少なくない。
54年目ついに閉店を決断
しかし、そんな新宿二丁目の名物店にもその日はやってきた。 1970(昭
和45)年のオープン以来、二人三脚でこの街に流れついた人々の心を癒し
てきた昭和の名残を残すクインが、2023年9月末で53年の歴史に幕を閉じ
ることになったのだ。
理由は、夫婦の体力の限界だ。 記録的猛暑となった2023年8月のある日、
孝道さんが倒れて救急車で病院に運ばれて、数日間、臨時休業を余儀な
くされたことがあった。
元気そうに見えるりっちゃんも、実は坐骨神経痛を患っていて、足腰が
日に日に悪化していた。 常連客たちは「辞めないでほしい」と声を上げ、
中には涙する人もいた。
しかし、りっちゃんの決意は固かった。
「役者は舞台に上がると痛いだの辛いだの言わず役をまっとうしてるだ
ろ。それと同じ。俺にとってお店は舞台。クインのママを演じなきゃい
けない。普段の『律子』とクインの『りっちゃん』。同じだけど、別な
んだ」
世界のホームラン王・王貞治さんは引退した年にも良い成績を残したが、
それでも自分が描くホームランを打つことができなくなったという理由
で引退を決めたという。
もしかしたら、りっちゃんも同じなのかもしれない。 周りがなんと言お
うとも、自分が理想とする「ママとしての振る舞い」ができなくなった
と感じたのではないだろうか。
街の繁栄とともに深夜食堂に…
福岡の小倉で育ったりっちゃんは、ひと足先に上京していた9歳上の姉
に誘われ、18歳で東京にやってきた。
その姉が営んでいた喫茶店の常連客だったのが孝道さんだ。 23歳で結
婚すると、25歳の時にクインをオープンした。
オープン当初は午前11時~午後8時までの営業。客のほとんどはビジネ
スマンだった。 新宿二丁目はかつて、「新宿遊廓」という色街だった。
しかし1957年(昭和32年)に売春防止法が施行されて以降、夜は人気の
ないゴーストタウンのような場所になっていたという。
しかし、「賃料も安く敷金・礼金・仲介手数料もゼロ」という不動産屋
の謳い文句に飛びついた人々が小さい飲み屋を開くと、1968年に華やか
なショーを売りにした女性厳禁のショーパブ「白い部屋」がオープン。
時代がバブル景気を迎えるころには、新宿二丁目は一気に賑やかな街へ
と変貌していた。 しかし、そんな賑やかな街に足りなかったのが深夜に
食事を提供する店。
クインは常連の人の出前注文を受けていたが、そのことが次第に口コミ
で広がったため、営業時間を昼間から深夜へとシフトすることにしたの
だという。
1年半取材した中で一番 大盛況となった最後の夜
クイン最終日には、翌日有給をとった会社員や自分の店を抜けてやって
きた店主や店員など多くの常連客が、りっちゃんと孝道さんを笑顔で送
り出そうと小さな店に詰めかけた。
年齢も職業も性別もバラバラな人たちだが、客同士の距離は近く、一緒
になって飲んで笑っている様子はまるで同窓会のようだった。
普段であれば米2キロ、ビール70本で足りるところが、この日は米5キロ、
ビール120本が5時間で完売。酒屋に追加注文をかける事態となった。
りっちゃんと孝道さん。二人が築き、長年守ったクインという小さな
場所は、知らない人同士がつながることができ、それぞれが人生を紡
いでいく上で一休みできるオアシスだったことがよくわかる光景だった。
そして、たくさんの常連客に惜しまれつつ、クインは閉店した。
閉店から2ヶ月ちょっと経った12月のある日。りっちゃんはクインが
あった場所を訪れていた。 新たに開店するピアノバーのマスターを
激励するためだ。
バーの店内には、クインの面影はもはやない。そんな空間にいるりっ
ちゃんはどこか寂しげにも見えたが、「婆さんが長居すると、店の雰
囲気を壊すな」といつものりっちゃん節で言うと、颯爽と店を後にした。
クインが閉店してからのりっちゃんと孝道さんは、週に1度、夫婦で体
操教室に通い、孫とのショッピングを楽しんでいる。そして現在も月に
数回、クインの常連客だった人たちの店に足を運んでは、大好きなモス
コミュールを嗜む。
「新宿二丁目は人生の楽しみが溢れた街」 りっちゃんはそう語る。そし
て、言葉通り、今も新宿二丁目で人生を謳歌している。……