シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

戦国に生きる:魏国興亡史・シニア徒然ブログ


鬼谷の教え:この作品は史実をモチーフとしたフィクションです。鬼谷きこくとは江南の陳国に生まれた人物で、弁論の術を学問として体系化し、それを書物に著したのだという。


(量権とは何か?:
その意味するところは大きいものと小さいもの、多いものと少ないもの、財産のあるところとないところ、人民の多いところと少ないところ、豊富なものと足りないものをはかることである。


また、立地の険阻あるいは平坦を見極め、自分にとっての利害をわきまえること。物事の長所短所を「謀」によって考えることを言う。


主君と家臣の誰が親しく、誰が親しくないのか、また誰が賢く、誰が不肖であるのかを知ること、外部の客の誰が知恵者で、誰がそうでないのかを知ること、


さらには時の吉凶、諸侯の交わりの中での有用不用、大衆の心の去就を見るに、何が安全で何が危ういのか、彼らが何を好み、何を嫌うのか、変化の激しい世の中で何が確かなことなのか、これらをよく知ることを「量権」というのだ……
『鬼谷子』


(虜囚)


※~

魏公罃は、龐涓が斉に敗れた旨の報告を聞くに及び、隣国の韓と結んで兵を襄陵に向かわせた。その知らせを受けた斉では、ともにかつて魏によって痛い目にあった衛と宋の協力を得て、これを迎え撃った。


指揮は、田忌と孫臏が再び共同で執った。が、結果は斉軍の大敗に終わった。斉王はこれを憂慮し、楚を調停役とすることで事態の解決を図った。


魏公罃はこれを無視してさらに攻めようとしたが、西から秦が介入する動きを見せたため、やむなく講和に応じた。このとき魏公罃は虜囚となっている龐涓の返還を求めたが、斉はかたくなにこれを拒否したという。


「邯鄲と引き換えだ。このこと、譲れぬ」あまりに斉が拒否するので、魏公罃はすでに龐涓が殺されているのではないか、と勘ぐった。しかしこれについては斉側が生存を確約しており、かつこれ以上の要求をするのであれば、本当に龐涓を殺すという条件を加えたため、引き下がらざるを得なかった。


「我が軍は、ずたずただな。桂陵で龐涓にやられたからだ。再編には一年も二年もかかるかもしれない」田忌は、嘆くように孫臏に対して言った。しかし孫臏はそれに反論する。


「それは魏も似たようなものです。今回は敗れましたが、それも予測していたことです。龐涓を殺さずにおいたことが、やはり効果的でした」


「ものは言いようだな」田忌は、現況に不満を抱いていた。孫臏に対する口調には、常になく棘とげがある。


「仮に魏が条件をのんで、邯鄲を返すとしたらどうなるか?邯鄲に駐屯する将兵たちが大梁に戻り、我々は交換に龐涓を手放すことになる。奴らの兵力はかえって充実することになるだろう」


孫臏はにべもなくその言葉を否定した。「仮定の話に過ぎません。実際にはそうなっていないではありませんか。現実としてはこうです。……魏は慣れない邯鄲の維持のために兵力を割かねばならず、龐涓は我がほうの手にある。この間に我々は兵力の再編を進めることができます。違いますか?」


「孫先生の兵学には、このような局面も予測して打開する術があるのか」「いえ。しかし十戦してすべて勝利を得たとしても、それは最上の結果に見えて、実は禍を生ずるものなのです。過度な勝利は、他国からの復讐の種になります。だからこそ戦の判断は慎重に為されねばなりません。兵を楽しむ者は滅ぶのです」


「ううむ。なかなかに理解が難しい言葉ではあるが…つまりは、戦わずに済むよう政略を巡らせよ、と言うのか。その観点から、孫先生は現状をどう判断するのか」


「魏はいずれ、邯鄲を持て余すようになります。その頃合いを見計らって、交渉を仕掛けるのがよいでしょう。龐涓を返すのはそのときがよいと信じます。そう遠い未来の話ではありません。


魏は諸侯を敵に回し、これから国防の重要性に迫られるからです」その後、魏公罃は領土の西辺に長城を築き、固陽に要塞を造った。


斉との戦いにあたって、秦の介入に備えたと見るべきだろう。事態は孫臏の予測する方向に流れつつあった。  


公孫閲はいらいらとしていた。彼はすぐに鄒忌に話を持ちかけたものの、その後間もなく魏軍が襄陵で攻勢に転じたため、田忌や孫臏は歴下から出征してしまった。よって、彼らが臨淄に戻ることもなく、策を実行に移すことができなかったのである。  


だが、いま彼らは帰国の途にあった。公孫閲にとっては都合がよい。しかも彼らは襄陵での敗戦という不名誉な結果をともにしていたのである。


「なぜ、迷われるのですか。どうして実行を躊躇うのですか」重ねて問われた鄒忌は、不満げな表情を浮かべて抗弁した。


「君の策は、お世辞にも高潔なものだとは言えない。もちろん有効なものだとは私も思っている。だが、実行を躊躇ためらう気持ちもわかるだろう。


過去に私は、王さまにたいそうなことを申し上げて、それが大いに評価された。その私が政敵を排するために茶番を演じたとは思われたくない」「計画を実行するにあたって、成侯さまのお名前が出ることは決してありません。慎重に行動しますので、どうかご安心ください」  


そう言われると鄒忌は考え込んだ。どうあっても彼は、田忌を追い払いたいのである。だが、武断的な軍人を追放するためには、通常ならば武力が必要なのである。それは、鄒忌には無理な話であった。ならば策略を巡らせるのも仕方のないことだろう。


「わかった」 やがて鄒忌がそう答えたところ、公孫閲はようやく喜々とした様子を見せ、宰相の部屋をあとにした。


※ ~


臨淄城内の道端に、評判のよい占い師がいた。よく当たるが、そのかわり代金は高めだという。公孫閲はその占い師のもとに自らの部下を送った。占い師は老人であった。  


公孫閲の命を受けた部下の男は、占い師を前にして、このように言った。


「私は田忌将軍の家臣だ。将軍は三度戦って三度勝ち、名声を天下に轟かせた」 実際のところ、田忌は負け戦も経験している。が、これは事実を大げさに表現すればするほど信憑性が増すという考え方に基づいている。


また、それだけこの時代の民衆にとって、真の情報を得ることは難しいという事実も示していた。「したがって将軍は、朝廷に対して大事を成そうと考えておられる。これが吉と出るか凶と出るかを占ってほしいのだ」  


占い師は依頼の内容に心の内で驚いたようであったが、傍目にはそれと悟られないように、黙々と卜ぼくと呼ばれる方法でそれを占った。


「八卦はっけによりますれば」占い師は手にした筮竹ぜいちくの束をじゃらじゃらと鳴らしながら説明をした。その一本一本にはある種の記号が刻まれており、その組み合わせによって吉凶を判断するのである。


「巽せん(たつみ)の相が出ております。これは自然の中では風を意味し、方角では南東を意味します。一族の中では長女を意味し、身体では股を意味します。性格は受動的なものとされ、動物では鶏を示すものです。また、五星では冥王の星を意味します…


しかし、最も重要なこととして、五行における木を示すことが挙げられましょう」「木は春の象徴です。木は燃えて火を生み出すとともに、根から養分を吸い上げることで土を痩せさせます。


私の占いでは、臨淄の宮殿に坤こんの相が出ております。坤は五行のうえで土を示すものとされています」「先に申し上げたとおり、木は土を弱らせることができます。これは五行で呼ぶ相克の関係です。


しかしながら、五行には相侮という考え方もあり、一概に結果を断定することはできません。…


つまり木の実力が充分でなければ、土を弱らせることができず、返り討ちに遭うという考え方です。また木があまりに強すぎると土の形成を阻みますが、結局木は土がないと生き延びることができません。また、土も木の根がなければ水に流されてしまいます。このようにすべて自然は相互の関係によって成り立っております。したがって、決断は慎重に為されねばなりません」


「では、どうすればよいのか」使者の男は、占い師の回りくどい説明に苛立ちを感じ始めていた。


「坤の相は、一族では母を指し、自然では地を示します。いっぽう巽の相では長女と風ですので、対抗することは難しいでしょう。ですが方角では坤は南西を指し、巽は南東を示します。したがって南西に向けて攻めたてれば、効果的に坤の軍勢を撃滅することが可能でしょう」


「では臨淄の北東に軍を置き、そこから南西方向に攻めよ、と言うのだな?」


「そうせよ、とは言えませぬ。先に申し上げたとおり、木に充分な実力がなければ、土に滅ぼされてしまいます。あなた方が、ご自身に充分な力があると信じるのであれば、そうなさるのがよいでしょう。もし自信がなければ、行動は控えた方がよいと申し上げておきます」  


そうか、なるほどと言って男は代金を支払い、外に出たところを拘束された。









※~


親父が出席するはずだったんだけど、どうしても行けなかったので、 僕が代わりに出席することになりました。


新幹線に乗って、ある田舎町へ…周りも見たことない人しかいないので、重い空気に気圧されていました。 葬式が終わり、退出しようとしたとき、 出口で見知らぬおば あさんに突然腕をつかまれました。けれども、つかんだきり何 も話さず目を丸くしているだけです。


かなりのご高齢だったので、認知症状かなと思い、何でしょう かと質問すると、「○○さん?○○さん?」としか言いません。 やはり認知症なのだろうと思い、周りをみても誰も知り合いが いる様子にありません。この人も僕と同じく遠縁の人のようです。しばらくおばあさんのそばにいて、話を聞いてあげました。


そうすると、おばあさ んに食事に連れて行かれました。お腹も空いていたので一緒に食事をすることにしました。食事中にも、おばあさんは昔話ばかりしていました。食事の後 も、僕はあちこちに連れ回されました。


帰りの新幹線の時間もあるので、おばあさんにそのことを言っ て、別れようとすると、今度は引止めにかかられました。 もう行ってしまうのか、今度は直ぐに帰ってくるのかと、聞き 取りにくい方言で何度も僕に聞いてきます。


いよいよ僕も面倒くさくなってきたので、また直ぐに会えます よ、と返事をしつつ別れることになりました。 おばあさんは駅まで一緒に行くと言い、さらに、途中何度も行 かないでくれと言われ、しつこく引き止められたのです。


※ ~ 散々な葬式代理出席でした。


数日後、また親戚の葬式の連絡です。今度は親父が、この間よりも近い親戚なので 僕にも一緒に来いと言います。 バイト仲間にまた葬式かと冷やかされて葬式に行きました。


式場に着いて驚きました。 亡くなった人は、あのおばあさんだ ったのです。 驚きつつも、そうか、あのおばあさん亡くなったのか、ぐらい の思いしか湧き上がってきませんでした。


葬式の喪主は、おばあさんの弟さんが行っていて、どうやらお ばあさんは、ずっと独身の様子でした。


式後改めて喪主の弟さんに会いに行きました。そこで、喪主で ある弟さんは、僕の顔を見て驚愕したのです。僕はまた○○さんと間違えられたようです。


亡くなったおばあ さんにもそう言われたことを教えると、いつ会ったのだと聞かれ、前の葬式で会い、食事やら散歩したことを話しました。 そうしたら弟さんが泣き出して、少し待っていてくれと言いま す。


しばらくして弟さんが写真を持ってきました。その写真には僕が写っていました。


写真は白黒でかなりぼろぼろでしたが、ゲートルを巻いて、国民服を着た僕が立っていたのです。そして隣には十代後半に見える女性がいました。良家のお嬢さんに見えます。


弟さんが話してくれました。その女性はあのおばあさんで、隣の僕そっくりな人が○○さんだということ、戦争が終わったら 結婚するはずだったこと。


終戦後その人は帰ってこなかったけれど、おばあさんは、帰ってくると言い続けたこと。おばあさんは戦後の農地改革で家が没落し、結婚を薦められても頑なに拒否し続けたそうです。


おばあさんが死ぬ直前に、弟さんに対し、やっとあの人が帰ってきてくれた、今度は直ぐ戻って来るんだと嬉しそうに語って いたとのことです。


弟さんは、死の直前に幻覚を見ているのだろうと思ったそうで す。だけど、そうじゃなかった、あの人の生まれ変わりが最後に会いに来てくれたんだ、と号泣しながら語り、僕に何度もあ りがとう、ありがとうと言いました。


僕も涙が止まらなくなりました。おばあさん、今頃僕のそっく りさんと、天国で寄り添っているのだろうか。またいつか、お墓に花を添えて会いに行きますね。…









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