シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

THEライフ・シニア徒然ブログ




里親を志望する人が以前と比べ増加し、国からの支援も手厚くなってきた。里親
制度がほとんど知られていない40年前から、里親として19人の里子を育てた坂本
洋子さんは「うちでは、30年以上前から、障害などハンデを持つ子どもだけを里
子に迎えている。


そう決めたのは、最初に預かった男の子・純平の死がきっかけ」という…。 「生
きるのをやめようと思ったけど、この家があるから生きることにした」






閑静な住宅街の一角にある、二階建ての一軒家。可憐な花に彩られた玄関周り、
あたたかな雰囲気が漂う「坂本」と表札がかかるこの家には、「坂本」と異な
る姓を持つ子どもが5人暮らしている。


ここ「坂本ファミリーホーム」は、何らかの事情で親と暮らせない子どもが、
里親に育まれながら成長していく場所だ。


※「ファミリーホーム」とは2009年に創設された制度で、養育者の住居で5〜6人
の里子を育てる、里親を大きくしたようなもの


私にとっては3年ぶり、そしておそらく6回目となる来訪だった。里親の坂本洋子
さん(67歳)が、明るい笑顔で迎えてくれる。リビングには家族旅行の集合写真
や、それぞれの子の七五三や卒業式などの写真、子どもたちの作品が壁に飾られ、
足を踏み入れただけで、愛情に満ち溢れた、あたたかな雰囲気を肌で感じた。


小柄ながら、いつもパワフルな“みんなのお母さん”である坂本さんは40年前か
ら「養育里親」として、19人の里子を育て、今はかつての里子であり、自ら「養
育里親」となった歩すすむくん(29歳)と共に、里子たちの養育にあたっている。


今や全国にさまざまな里親がいるが、坂本さんは30年ほど前からあえて、障害な
どハンデを持つ子どもだけを里子に迎えるという、養育里親の中でも稀有な里親
となっている。


現に坂本家の里子たちは皆、聴覚障害や知的障害、緘黙、自閉症スペクトラムな
ど、何らかの障害を持っている。 無論、初めから「障害のある子だけ」を預かっ
ていたわけではない。


坂本さんにこう決意させたのには、初めて預かった里子、純平くん(仮名)の存
在があった。





坂本さんは、世間体や体面を非常に気にする厳しい両親の下に育ち、最初は、
福祉系大学への進学を親に反対されたことで断念し、短大へ進んだという。


親が反対したのは、有名大学でなければ、大学名を周囲に聞かれたときに恥ず
かしいという理由だったそうだ。


しかし、その後、1年間、念願の福祉関係の学校に通い、子どもの社会福祉を
専攻した。もともと坂本さんは子どもが好きで、障害のある子に寄り添いたい
という思いを10代から抱いていたのだという。


23歳で、教育系の職場で働く夫と結婚。婚姻時に、「もし、子どもが授からな
かったら、里子を育てよう」と夫婦間で決めていた。


「私、昔からどんな子とも仲良くなれる自信があったの。なかなか妊娠しなく
て不妊治療もしたけれど、自分の子どもを持てないと分かったら、里親にあっ
さり切り替えられた。


これは、神様が私に里親をやりなさいと言っているんだなと。与えられた宿命
というか、背中を押されているとはっきりとわかったの」(坂本さん、以下同)


夫婦で居住地である東京都の窓口に出向き、里親希望を伝えたところ、「養子
縁組里親」か「養育里親」の選択が必要ということで、坂本さんは迷わず、
「養育里親」を選んだ。


「家に跡取りが必要なわけでもなく、縁組をする気もなかったので、養育里親
で行こうと即決。養子縁組里親は、なかなか子どもが来なくて、1年以上待つこ
ともあると聞いたので、それなら早く子どもを預かってあげたいと思ったの。


本当の親と暮らせるなら、それが一番だから、それまで大事に預かろうって。


住居や経済力などさまざまな面での調査があったり、夫婦で講習を受けたりし
て、ようやく、里親として認められたの」





1985年、坂本さんが27歳の時だった。 2カ月後に児童相談所の担当者から、
乳児院にいる3歳の男児はどうかと打診があり、夫婦で乳児院に面会に行った。
「お母さんが養育できなかった子とだけ、聞きました。


初対面では、担当の保母さんにしがみついて、私たちには寄ってこなくて。
子どもって、違う環境に置かれるってわかるんですよね。なかなか距離が詰
められず、何回も通いました。


それが、だんだん近寄ってくれるようになり、家にも何回かお泊まりをして、
児相もこれなら大丈夫と判断したタイミングで、最初の里子を迎えました。
その日のこと、今でもとてもよく覚えています」


3歳の男の子の手をひき、その身体を抱いた時、ワッと実感が湧いて、重い責任
に押しつぶされそうになった。 「私、本当に最後まで、この子を育てられるの
かという不安が実感として押し寄せました。


初めての育児で突然、3歳の子と一緒に暮らすわけですから」 だが、初めての
育児に待っていたのは、子どもと暮らす楽しさだった。公園で一緒に遊び、天気
がいい日にはお弁当を作って川原に行った。どれも、全てが楽しかった。


乳児院での経験しかない純平くんは、よく坂本さんを驚かせたという。 「鯉
のぼりをえらく怖がるものだから、なぜ? と聞くと『あんなところにいたら、
あの鯉、お空の天井にぶつかっちゃうよ』と言ったり、バスのアナウンスが流
れると不思議そうにスピーカーを見て『あんな狭いところに、人が入ってるん
だね』と言ったりね。


社会経験がとても少なかったので、彼にとっては全てが新鮮に映ったみたいで
す。そして、そうやって彼の言うことが、私にはものすごく新鮮だった。本当
に、全てが楽しかったです」





もちろん初めての育児が全て順調に進んだわけではない。純平くんには、問題
行動もかなりあった。


「人の家に遊びに行ったら、勝手に冷蔵庫を開けるし、欲しいものがあれば持
って帰って来ちゃう。初対面の人のバッグを開けちゃうなんてこともしょっち
ゅうで。あるものを取り合って、自分のものにする乳児院の世界から、なかな
か抜け出せない。


でも、当たり前ですよね。それが、生まれ落ちた時からの環境なんだもの。


私たちにはあり得ないことが、彼らにとっては普通のことだった。だから、
ちゃんとしなければいけないとそのあたりは何度も厳しく教えました」


乳児院に限らず、児童養護施設で育つ子は、家庭で育つ同世代の子と比べて、
経験が圧倒的に足りないという指摘がある。また、乳児院では、子供の「愛着」
を形成することも簡単ではない。


「愛着」とは、養育者と赤ちゃんの間に築かれる絆のようなもの。例えばハイ
ハイをした赤ちゃんが急に不安になっても、母親のあたたかな膝を思い出せば、
不安を鎮め、大きな混乱をきたすことはない。


愛着があれば世界を広げることができ、安定した対人関係を築いていくことが
できるといわれる。


一方、虐待などで愛着をもらえなかった子どもはさまざまな問題行動を引き
起こす傾向があり、それは「愛着障害」と呼ばれる。他人のバッグを勝手に
開けたり、他人の靴下を履いて帰ってきたりする行為は、人との距離がわか
らないという愛着障害が引き起こす行動とも言える。


それにより対人関係に支障をきたす、衝動を抑えるストッパーを持たないな
ど、愛着を獲得できなかった子どもは、その後の人生でも生きづらさを抱え
て生きていくことになるのだ。





純平くんにも、その要素がなかったとは言い難い。それでも坂本夫妻は精一杯
の愛情と時間を注ぎ、純平くんの「妹が欲しい」という願いにも応え、3歳下
の友紀ちゃん(仮名)を里子に迎えて、一家4人、幸せな日々を過ごしていた。


「いろんなイベントをやったり、森に出かけたり、旅行に行ったりね。純平も
友紀も自分だけのお父さんとお母さんがいる生活は、幸せだったと思うし、私
たちもそれがつづくことを望んでいた」


しかし、一歩家の外に出ると、そのような和やかな世界はなかった。


純平くんには多動の傾向もあり、幼稚園の頃から「変な子」と言われ周囲から
浮いていた。


それでも友達と遊んでから帰宅するなど、交友関係を広げていた純平くんだっ
たが、進学した小学校で、担任が坂本さんに提案したことが、坂本家を窮地に
追い込むことになる。


「この子は里子だと言って周囲からの理解を深めることで、みなさんに協力し
ていただきましょう」 学校の先生がそんなに親身に考えてくれるなら……と
従い行ったカミングアウトが致命的だったと坂本さんは語る。


「そこから、親たちからの差別、区別が一斉に始まってすごかった。直接会っ
たときには『あなた、偉いわね。立派なことなさって』と言っておきながら、
裏では全然違うようなことを言っているのを聞く。人間って、表と裏でこんな
に違うんだということを、このときに、私は初めて知ったんです」





それからは、学校で純平くんと同級生が「遊ぼう」と約束して来ても、必ず、
親から断りの電話が入るようになった。


遊ぶのを楽しみに帰宅した小学生の男の子にとって、それはどれほどつらい
ことだったか。近所に住む専門職の母親が、突然電話をしてきて「うちの娘
に近づかせないで。うちの娘があんたの子と将来、何かあったらどうすんの
?」と言われたこともある。


当時小学2年生のかわいい息子へのあまりの言葉に坂本さんは、言葉を失った。
そこで、坂本さんは学校にも親にも、里親制度のことを説明し続けた。この
ままじゃいけないと思ったのだ。


純平くんたちは、社会で育て、守っていかなければいけない子供なのだと。
「純平と妹、この子たちを守れるのは私しかいないと思って。世の中の人に、
里親制度を正しく受け止めてもらおうと話し続けました。


子供のせいじゃないのに、差別はおかしいだろうと。だけど当時、里親なん
て本当に珍しかったからか、誰一人、聞く耳を持つ人はいなかった」





純平くんは次第に、学校へ行けなくなっていった。


児相に状況を改善するためのアドバイスを求めたが、児相の結論は、純平くん
を坂本家から引き上げることだった。


引き上げられた里子は、そのあと一時保護所で過ごし、児童養護施設へ再入所
することになる。


「やっとやっと、人生で初めて、みんなと同じ家庭を得たのに。子どもの立場
からすれば、こんなに残酷なことはない。


彼は、最後まで『この家にずっといたい』と言い続けていました。


わたしもふくめ、みんな『子どものために』と話し合い判断するけれど、子ど
も本人の意思が尊重されることは多くなく、大人に振り回されてしまう」


家族で過ごす最後の夜、4人で外食をした後に車で家へ向かっていると、純平
くんが「ぼくの学校を通って」と、父にお願いしたという。


学校に着くと「お父さん、ゆっくり走って」と。 「あたりを見渡すと、校庭
も校舎も真っ暗で。周囲には住宅が並び、その窓から煌々とした明かりが漏れ
出している。


それを見て、ああ、絶対に子どもを取り上げられない、家庭の光がこれだけあ
るのにって……。何で私たちは、離れなきゃいけないんだろうって。悔しくて、
悔しくて」 学校を通り過ぎて、純平くんは静かにこう言った。


「お父さん、お母さん、ありがとう」 坂本さんは帰宅後、純平くんに1本の
ぶどうの木とその枝を描いた紙を見せて話をした。


「この枝はお父さんとお母さん、これは妹の友紀ちゃんで、これはあなたね。
どこへ行こうと、みんな、この葡萄の木のように繋がっているんだからね」
翌朝、純平くんはその絵を持って、坂本家を出た。


「今振り返っても、気の毒すぎた。彼は小さいのに全部わかって受け入れて、
御礼まで言って出て行って……。


友紀も大好きなお兄ちゃんが急に連れられていっただけでなく、自分もそう
なるかもと不安そうでした」


それからも、純平くんは時々、施設を抜け出してはこっそり坂本家にやって
きて、一言の手紙が置いてあるなど、小さい目印をつけていったので、その
たびに「純平が来ていたのかな?」と坂本さんたちは話したという。


夏休みの長期外出では坂本さんたちと旅行にも行った。そして中学卒業と同時
に、純平くんは施設を出た。当時、施設の子たちは中卒で働く人も多く、今の
ように、その先の支援などはほとんど整えられていなかった。


「最後に純平が来たときは、お給料で買ったって発泡スチロールの箱いっぱい
の魚介を持ってきてくれて。私が魚介を好きと知っていたので『お母さん、
食べろ』って置いて行ってね……」





その夏、里子たちとの旅行から帰ってきた坂本家のFAXには、溢れんばかりの
大量の紙が渦巻いていた。何事かと手繰り寄せたFAXには、信じられないこと
が書かれていた。


「純平くんがバイク事故で、亡くなりました」 17歳で、帰らぬ人となった純平
くん。あまりにも短い人生だった。


生前、純平くんが坂本さんに書いた手紙に、こんなことが書かれていたという。


「もう生きるのを、やめようかと思ったけど、この家があるから、生きること
に決めたんだ」 純平くんの死は、坂本さんにとって受け入れ難いことだった。


「彼の人生に、生まれてきていいことってあったの? 幸せなことは、あった
の? って。親がない子どもっていうのは、こんな残酷なことになるんだって」
ただただ、悔しく、涙が止まらなかった。


初めての大事な里子、かけがえのない子だった。 「魚を置いて行って、すぐに
電話もくれたんだよ、『お母さん、食べたか?』って。今置いて出て行ったば
っかりなのに、そんなに早く食べられるわけないでしょう? って笑ったよね。


優しい子でした」 思えば、今でも涙が込み上げる。純平、あなたは私に会って
よかったの? 人生で幸せと思えたときはあった? それを知ることもできない
まま、純平くんは星になった。 ……
(後編へ)













学生のダルな一日がスタートする。大学に来ると今日も面白くない講義が
続く。いったい先生という種族は何を考えているんだ?こんな面白くない
授業を受ける身になれないのか?


確かに、勉強はしなければならないが、したくはない。学生というのは複雑
な心境にあるのだ。それぐらい判って欲しいよ。これじゃ、ますます落ち込
んでダルになる。  


でもオレは忙しい。授業は出たくないけれど結構、数はある。レポートも
あるし、なんやかんやで忙しい。


携帯は鳴る、メールは来る。向こうから歩いてくる友達は誰だったっけ?
気を配らなければならないしな。それに財布は寂しい。といってまた親に
電話する気にはならない。


また10分はお説教を食らうだろう。判っているんだ、そんなことは。でも
オレにも言えない事情があるから仕方ないな…


大学から下宿への帰り道に老婆がいる。


ヤツはなんであんなに暇なんだ。いつも縁側でボーッとして外を見ている
だけだ。オレの家にもおばあさんがいるから判るけど、老人は朝が早い。
きっと早くから起きるのだから一日が長いだろうな。


老婆は諦めていた。でもその諦めはあまりに長い間、続いたので老婆自身
は、それが諦めなのか、自分の運命なのかはもう判らなくなっていた。


毎日は何もなく過ぎ、ただ時間だけが経過していく。でも、本当は彼女に
はしたいことがあった。こうしてぼんやりと外を見ていると学生さんが通
る。元気な学生さんだ。


なにをキョロキョロしているのだろう?若い頃はそうしたものだったのか
?もう遠い昔だから思い出せない・・・  


彼女は4人の子供を産んだ。その子供たちはそれぞれ立派になって遠くにい
る。時々、電話をくれるのだから自分は幸せの方だとは思うけれど、それ
でも本当は会いたい。


子供が小さい頃、忙しかったけれど、苦しかったけれど、そこには生活が
あった。でも子供たちが巣立ってしまうと私の生活の実感も一緒に巣立っ
てしまった。


私は人生がなくなるためにああして頑張ってきたのだろうか?  


彼女は学生を見ると無性に子供に会いたくなった。ああ、会いたい・・・
でも、私はもう寄る年波で自分一人で動くことも、まして電車に乗って遠い
子供のところなんか行けない。


娘に頼んだら連れて行ってくれるとは思うけれど、娘も忙しいのだからあま
り迷惑はかけたくない。でも本当は子供に会いたい・・・でも老婆は諦める。


あの学生さんには未来がある。きっと日本を背負ってやってくれるだろう。
それに較べて私はもうやることは終わった。子供も産んだし、育て、そして
主人も他界した。


私の希望を叶えることは贅沢というものだ・・・仕方がない。  


老婆はお茶をそそる。学生はそんな老婆を見て、「なんて暇なんだ!」と腹
を立てながら小走りに坂を下っていった。  


将来のある人の時間は大切で、無い人の時間は無駄なのだろうか?同じ人生
の時間なのに、老婆の時間はそれほど残っていないのに社会は老婆の時間に
冷たい。


人生には3つの時間がある。


自分が成長していく時代に過ごす時間、働いている年齢の時の時間、そして
人生が終わりに近づいた時間だ。


不幸にも途中で人生が終わりになる人は別にして、多くの人がそのような
人生の時間を過ごしていく。そして「社会は働いている時間」がもっとも
大切で、その次に「成長していく時間」に敬意を払う。


でも「終盤の時間」には社会は価値を置かない。でも本当にそうだろうか?
確かに日本が貧乏だったとき、一人一人の国民より国全体が大切だった。


そのようなときには若い人は将来があり日本を背負うのだから価値が高く、
お年寄りは価値が低いかも知れない。かつて敵国と戦い、若者が戦場で血を
流したときには若い人は大切で、戦うことができない老婆は価値がないかも
知れない。


そして食糧が慢性的に不足していたときには姥捨て山も存在した。  


現代はどうだろうか?若者も既に戦場に出て血を流すこともなく、勉強も
お国のためというより個人のためであるし、それは正しいと思う。


家族も日本が貧乏だった昔とは違い、お年寄りも息子や娘の働きに期待しな
くても生きていける。それなのに、なぜ若い人の時間より老婆の時間は意味
がないのだろうか?  


おそらく、まだ戦争があって、国を守り、若者の血が大切なときのことがその
まま引き継がれているのだろう。国家を個人の上位に置く癖が抜けないのだろ
う。いや、学生と老人の時間だけが変わったわけではない。かつて最も貴重だ
った人たち・・・


一家の大黒柱であり、国の宝であった優れた勤労者たちは、時に家庭では「粗
大ゴミ」と言われたり、「亭主、元気で暇がよい」とされる。会社でも長年の
苦労は報われず、会社は株主か、一部の経営者のものだからという理由で簡単
にリストラされる。  


「働き手の軽視」は不合理で理不尽なことではないのだろう。時代はそのよう
に進み、もう働かなくても良いといっているのだ。それなら、学生の時間も、
勤労者の時間も、そして老婆の時間も等しい価値を持っているはずである。  


学生は傲慢だ。自分の時間は大切だが、他人の時間には気が回らない。勤労
者も傲慢だ。勤労者は社会をよく知っているが故に、自分たちの働きで社会
が維持されているのを知っているが故に、自らの時間は価値があると思って
いる。  


老婆は人生を長く歩いてきた。人生というものが何かをよく知っている。人
は一人で生きているのではないことも、人は自分の辛さしか判らないことも、
そして時間はすべてを押し流しながら過ぎていくことを。


だから、彼女は静かに座って外を見る。熱い心で静かに座っている。


彼女の本当の心は、よそ見をしながら歩いていく学生のように飛び跳ね、忙し
く人生の時を過ごしたいと言う。それは年齢も、性別も何も無関係な人という
生物の欲求である。  


人の時間、1時間という時間は、その人が若者でも、老人でも、男性でも、女性
でも、労務者でも、社長でも、皆同じである。


忙しい人の1時間も、暇な人の1時間も、その価値は同じである。時の価値は
社会が決めるのではなく、その人のものだからその人が決める。その人にと
っては1時間は1時間である。  


「思いやり」「癒し」という言葉が語られる。


現代の思いやりや癒しは、学生が学生に、勤労者が勤労者に、自分が自分に、
思いやることであり、癒すことである。でもそんな思いやりや癒しはいらない。
それは利己主義という表現が適切だ。


思いやりとは、自分より老婆の方が立派であり、だから自分の1時間より老婆
の1時間が大切だと感じる心である。 …













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