シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

番外編・シニア徒然ブログ

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絹代さんはドラマ「りんりんと」で、おふくろの霊の
乗り移ったような鬼気迫る演技をしてくださった。





その日は飛行機がもう間に合わなかった。二十二日、
羽田から鎌倉に直行した。


その晩鎌倉山の田中絹代さんの家で、小林さんと僕
と、絹代さんがずっとボディさんと呼んでいたボデ
ィガードの隼新吉さんと三人朝まで酒を飲んで過ご
した。


昔、松竹大船の習慣で、女のスターにはボディガー
ドを兼ねた大部屋の男優がつけられたという。新吉
さんはそういう形でずっと絹代さんのそばにいた人
だった。


そこは大女優の家というには、あまりに寒々とした
小さな部屋だった。


旧型の、ダイヤル式の小さなテレビが一台。これも
ダイヤル式の、時代おくれの電話器があった。


電話をかけるといつもモシモシと警戒した声で電話
をとり、僕だと判ると急に明るくアラ!と返事のト
ーンが変わった。


あの電話はこの部屋でとっていらしたんだな、と知
れた。


スターと云われる人と電話で話す時、相手の今いる
部屋の情況を僕はどうしても想像してしまう。


鎌倉山の丘の上にあるという田中絹代という大女優
の家は緑の芝生に囲まれた陽だまりの中にいつも静
かにたたずんでいると、そういう姿で想像していた。


実際の姿はおよそちがった。裸電球が只一つぶら下
がる、あまりに寒々とした小さな部屋だった。


続々と続いていた献花の列が途絶えると、後はしん
とした鎌倉山の夜になった。


僕ら三人はさしたる話題もなく、しんと眠っている
大女優の死に顔を前に、時々線香を変えローソクの
火を足して遺体の前で酒を重ねていた。


突然唐突に小林さんが、終戦時の関東軍の話をし始
めた。


「武装解除されアメさんの捕虜になって日本に帰さ
れるところだったんです。ところが沖縄の捕虜収容
所の員数が足らんということが急に判りましてね。


健康なものが百五十人選ばれていきなり沖縄に廻さ
れちまったンです。


廻されたンだけどやることが殆どない。瓦礫の片づ
けを日中からやらされて後はごろごろ二千人の捕虜
がカマボコ兵舎でぼんやり過ごしている。


これじゃいかんと将校が云い出して、劇団を作って
芝居でもやろう。そこで突然私に白羽の矢が立ちま
した。


応召前お前、映画会社にいたんだろう。


これから一つ劇団を作って、貴様毎月芝居を作れ。
役者になりそうな奴を何人か集めて、脚本を書い
て毎月一本上演しろ。


やることがなくてブラブラしとるのはどう考えても
衛生上悪い。急遽劇団を作ることになりました」


小林正樹監督の話は続く。


「芝居って云ったって全員素人です。第一全員男で
すから女をやるものが誰もいません。仕方ないから
細身の奴を何とか説得して女形にしたンです。


ところが野郎だけの世界ですから女の姿を久しぶり
に見て変に全員生唾を飲みました」


「芝居は意外にも好評でした。何にも増して女形の
姿が圧倒的に野郎の気を惹いたンです。


噂を聞いて米軍キャンプから黒人兵が来るようにな
りました。あいつら妙に興奮しましてね。


そのうち女形が拉致され始めました。戦勝国ですか
ら有無を云わせません。朝まで拉致されてボロボロ
になって帰されてくるンです。


その際タバコとかカンヅメとか土産をいっぱい持た
されて来ました」


そのうち噂は白人兵に伝わり、黒人兵は追い出され、
白人兵がどんどん来始めた。限られた数の女形たち
は次々に拉致され犠牲になった。勿論土産はたっぷ
り持たされた。


「情況というものは恐いもんです。


同性愛というその風潮がいつのまにか日本兵の間に
拡がりました。アッという間です! 


大体九十から九十五%位、そういうコトになっちゃ
ったんじゃないかな。僕は芝居に忙しくて倖いそう
いうことにはなりませんでしたがね」


やがて帰国が果たせることになり、引揚船から内地が
見えてくると、船上はえらいことになっていたそうだ。


船内のあちこちで恋人同士が抱き合い、涙を浮かべて
チュッチュチュッチュと。ところが船が岸壁につき、
タラップの下に迎えの家族の姿が見えると、まるで
夢から醒めたようにバーッとそれぞれ散って行った
そうだ。


「あれから何十年。みんなそれぞれ良い齢になって
社会的地位も上がっています。社長になったり部長
になったり。


戦友会というものが時々今も開かれるんです。


偉くなったみんながそれなりに老けて貫禄をつけて
最初は坐ってます。ところが酒が廻り座が乱れてく
るといつのまにか昔のカップルがしんみり寄りそっ
て語り合ってるンです。あの頃はお互い純粋だった
ね。ネ」


明け方、玄関のベルが鳴った。


出てみると年老いた往年の二枚目俳優が真剣な顔で
扉の所にいた。


「昨夜弔問に参ったンですが、香典の袋に果たして
金を入れたかどうか、不安で一晩中眠れなくって。
すみませんが調べて戴けますか」


絹代さんの葬儀はその翌々日、築地本願寺で大々的
に執り行われた。


新旧とりまぜた芸能界の大御所小御所が、朝早くか
ら本願寺に集まり、周辺は激しいラッシュになった。


それにも増して目を引いたのは、境内いっぱいに溢
れるように集まった無名のファンたちの群衆の数だ
った。何故か一様に背が低かった。


葬儀委員長は松竹の城戸四郎社長。式と弔問は昼前
まで続き、昼近くになってやっと収まったが、無名
のファンの大群衆は境内を埋め尽くした
まま動かなかった。


あの人たちにも焼香をしてもらおう


誰かが云い出し祭壇の前に急遽新しい焼香台を倍近い
長さに増設し、ファンたちの群に入ってもらった。


巾広いその列は延々と続き一時間以上絶えることが
なかった。


その列がようやく終わったのが一時すぎ。堂内は濛々
たる煙に覆われた。その煙が少しずつ消えて行った時。


あれは何だ! と誰かが呟いた。


煙の消えて行く焼香台の上に、無数にキラキラと光る
ものがあった。百円玉十円玉五十円玉。


それは無名のファンたちが絹代さんの霊に勝手に捧げた
“気持ち”の山だった。


斎場の表には香典受付所があった。だがそれはあくまで
有名人たちのものであり、無名人たちにはそこに捧げる
香典袋の用意もなかったし、資格もないと思ったにちが
いない。


そう考えた無名のファンの一人が自分の気持ちをコイン
に託した。それを見た人が我も我もとそれに倣(なら)
ったのだ!


香典というよりそれは、賽銭だった!


亡くなった女優への賽銭だった!胸の中がふいに熱く
なった。涙が鼻と目から溢れた。


絹代さん、やっと報われましたよ。一生を賭してあな
たのなすった仕事が、こんなに素晴らしいファンたち
の心で、やっと、ようやく報われましたよ。


僕らはみんなでそのコインを集め、絹代さんの墓に
遺骨と共に納めた。












親からの独立、離婚、配偶者との死別など…長い人生、
いつかは一人になることを考えて不安に思う人も多い
のではないでしょうか。


「人間は誰も中年、老年、それぞれの年代において一
人になる可能性がある。それに備えることは実に重大
な任務だ。」


困ったことに、と言ってしまうのは軽薄なのだが、人
間関係ほど恐ろしく、同時に魅力的なものはない。ど
ちらがほんとうなのか、と聞かれると、私は返事に困
る。


世間には人間嫌いと自らも自分を位置づける人がいて、
その程度はさまざまだ。


何となく、人との関係がいつもぎこちないという程度
で一生済んでいく人もいるし、徹底して部屋の中や森
の奥に引っ込んで、外との関係を極端に避ける人もい
る。


純粋に好みの問題だけで言えば、私は後者に傾く性向
がなくはない。





とにかく、関係なくしていれば、相手に危害やら被害
を与えなくて済む。私は一生に数人、それとなく付き
合いを断った人がいたが、その人たちは、決して悪人
ではなかった。


ただ会話を交わすと、私が言ったことを平気で間違っ
て、と言うより、むしろ正反対の意味に書く人だった
から恐れをなしたのである。


それは純粋に聴力が悪かったのか、それとも日本語の
理解力に問題のある人だったのか、私のしゃべり方が
悪かったのか、いずれかだ。


わからないことは考えなくていいのである。そう思い
ついた時、それは中年のどの時期からそうなったのか、
私には覚えがないが、これが私の救いであった。





最初からそう思えたわけではないが、次第次第にそう
思うようになった、という方が正しいだろう。


私は学者でもなければ、政治家でもない。総理大臣だ
ったら、原発が津波で機能を破壊されれば、その後の
処置に対して即断をしなければならないところだが、
一市民なら幸福なことに、そんな重要な決定をくだす
必要はないのだ。


そうしたことがどれほど人間として必要で、ささやか
ながら折り目正しく、かつ偉大な幸福の理由か、世間
はあまり自覚していない。


迷う時間、わからないという判断を人として許されて
いるということは端正な自由である。


その素晴らしさを、とことんわかってもいいと思うの
だが。





そういうわけで、私の言葉を理解してくれない耳の悪
そうな人に出会ったら、私は自然に遠のくことにした
のだ。


それにもしかすると、同じ人間で、同じ日本語という
言語を喋る相手でも、通じない、という奇妙な現象は
あるのかもしれないのだから。


距離というものは、どれほど偉大な意味を持つことか。


離れていさえすれば、私たちは大抵のことから深く傷
つけられることはない。これは手品師の手品みたいに
素晴らしい解決策だ。


そしてまた私たちには、いや、少なくとも私には、遠
ざかって離れていれば、年月と共に、その人のことは
よく思われてくるという錯覚の増殖がある。不思議な
ことだ。


離れて没交渉でいるのに、どんどんその人に対する憎
悪が増えてくる、ということだけはまだ体験したこと
がない。…










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